ナビゲーションをスキップして本文へ

ここから本文です。

現在の位置:ホーム > 教育・文化・スポーツ > 文化 > 五所川原立佞武多(ごしょがわらたちねぷた)

五所川原立佞武多(ごしょがわらたちねぷた)

 

五所川原立佞武多

五所川原立佞武多は、高さ20メートル以上、重さ16トンという巨大なもので、弘前市の扇ねぷたとも、青森市の人形ねぶたとも違う、明治末期の巨大化した佞武多の様式を伝えています。運行形態は、大太鼓(忠孝太鼓)を先頭に、台車に乗せた立佞武多を数十人の引き手が台車の左右に付けたロープにとりつき2列になって引きます。2列の間には、太鼓、笛、手平鉦で構成される数人の囃子方が囃子を奏し先頭となり、次いで数十人のハネトが「ヤッテマレ」などのかけ声をかけてはねながら続きます。

ねぷた、ねぶたの歴史

「ねぷた」がいつ頃、どんなきっかけで始まったかは明らかではありませんが、一般的には、全国各地で今も行われている「眠り流し」という民俗行事と共通のものと考えられています。「眠り流し」が青森県では次第に華やかな灯籠まつりに発達し、現在の「ねぷた」・「ねぶた」になったといわれています。
津軽地方の「眠り流し」の行事は、江戸時代の17世紀後半あたりから「灯籠祭り」になったと推測されています。
「ねぷた祭り」の確かな記録でもっとも古いものは、津軽藩「国日記」の享保7年(1722年)の記事で、これには藩主が各町内の「祢ふた」を見たとあり、このころには祭りとして成立していたことがうかがえます。
この時期までの「ねぷた」は素朴な形でしたが、19世紀に入ると、人形灯籠の出現と「ねぷた」の大型化という大きな変化が生じ、これによって「ねぷた」はより華やかで盛大な祭りになりました。
「ねぷた」は江戸時代後期から大型化してきましたが、明治時代に入ってますます大きくなり、高さが20メートル級、30メートル級の巨大ネプタが出現するようになりました。五所川原でも明治40年頃に高さ15間(約27メートル)に及ぶ「ねぷた」が作られていましたが、電灯線や電話線が張り巡らされるようになると高さが制限され小型化していきました。
今日当市で運行されている「立佞武多」は、明治40年代に作られていた、高さ15間(約27メートル)に及ぶ古い「ねぷた」の写真を見て復元を試みた有志が平成8年に作ったものが始まりで、平成10年からは、運行経路となる路上の電灯線、電話線を整理し、市民総ぐるみの夏祭りとして実施されています。
立佞武多の人形は、前年9月下旬頃下絵を完成させ、それに基づいて10月から制作にかかります。大型のため数個の部分に分けて作り、上貼り、色付けの工程を経て2月中旬頃に組立を終えます。

 

明治後期の立佞武多

明治後期の立佞武多写真

 

2010年出陣の立佞武多「又鬼(またぎ)」

2010年製作立佞武多の写真

 

祭りの概要・観覧施設
「五所川原立佞武多」(祭り) 毎年8月4日から8月8日 中心市街地一円
立佞武多の館(観覧施設)

住所:〒037-0063 青森県五所川原市大町21-1

電話:0173-38-3232

立佞武多の館ホームページ

ページの先頭へ

ホームへ戻る