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十三湊遺跡(とさみなといせき)

十三湊歴史観光マップPDFファイル(1868KB)

十三湊遺跡は、本州最北端の津軽半島の日本海側ほぼ中央、岩木川河口に形成された潟湖、十三湖(じゅうさんこ)の西岸に位置しています。
戦国期に成立したと考えられる『廻船式目』に三津七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」とみえ、中世北日本の重要港湾であったことがうかがえます。
津軽の豪族安藤氏が拠点をおいて栄えたとされながら、南北朝の津波によって壊滅したという伝承があり、長い間幻の港町とされてきましたが、平成3年度以降の市浦村・青森県教育委員会等による組織的な発掘調査の結果、13世紀から15世紀に営まれた広大な遺跡の実態がおおよそ把握されました。

 

遺跡遠景

十三地区上空写真 十三地区上空写真2

 

十三湖は現在直接日本海に開口していますが、かつては砂州の間の水路、前潟を通じてつながっていました。
遺跡は前潟と十三湖に挟まれた砂州先端に立地し、規模は南北約2キロメートル、東西最大500メートルにおよびます。
前潟に面した西側が高く、そこに十三集落の街村が南北に立地しており、成立期の遺跡はこの中央付近で確認されています。
集落東側の広大な畑地が遺跡の中心で、北西の前潟に面する地区に港湾施設、南端に伝壇林寺跡が位置しています。
中心の地区は空堀を伴う東西方向の大土塁により南北に二分されています。
土塁北側は遺構・遺物の内容から、領主やその関係者などの居住区と考えられ、大土塁は遺跡の最盛期である14世紀後半から15世紀前葉のものであり、その北側に遺構が営まれるのは14世紀前半にさかのぼります。14世紀後半以降は大土塁とほぼ同方向の柵を伴う東西道路が規則的に配置され、その間に多くの掘立柱建物・井戸、鍛冶・製銅の工房などの竪穴遺構が分布し、都市計画的な屋敷割がみられます。この地区は遺物の出土量も多く、奢侈品の陶磁器や東北地方では稀少な京都系のかわらけもまとまっており、中心的な場であることを示唆しています。この地区では15世紀前半の火事場整理の跡と考えられる、多量の被熱した礫を廃棄した遺構が多数存在するため、火災により多くの施設が焼失した後、いったん復興作業が行われたと推定されます。この火災は永享4年(1432年)の南部氏との抗争で敗れた際に伴うものとの指摘もあります。
土塁南側は地割から町屋の存在が推測されています。側溝を備えた南北道路があり、その両側に掘立柱建物と井戸を伴う区画があります。南辺には墓跡や畑がみられ、この地区は15世紀中葉頃、土塁北側の火災後に計画的に整備されたが、まもなく衰退したと考えられます。
この地区から約300メートルおいて伝壇林寺跡があります。土塁や溝等による一辺百数十メートルの方形区画が東西にふたつ並ぶものと考えられ、東方区画は建物や井戸などから居住空間、西方区画はさらに溝による長方形区画があって遺物が少ないことから宗教的施設と推定されます。
前潟に面した港湾施設は船着場に伴う遺構と推測さ、汀線付近の砂地に広く礫敷が認められ、護岸用の木杭と横板、桟橋の可能性がある縄が巻付いた杭等も出土しています。

伝壇林寺跡、港湾施設とも時期は土塁南側とほぼ同じであると考えられています。
十三湊遺跡は13世紀初めに成立し、15世紀後半に急速に衰退するまで、中世国家の境界領域に位置するという立地条件のもと、北日本における日本海交通の拠点港として発展、繁栄しました。その衰退後は遺跡地の大半は開発されることもなく非常に良好に保存され、かつ周辺には山王坊遺跡等の関連遺跡が豊富に分布し、とりまく十三湖や日本海の環境・景観もすぐれています。
国内において、重要な港湾を備えた大規模な遺跡として類いまれな事例です。(「平成17年史跡指定申請書」文化審議会による答申の概要説明文より引用)

 

十三湊遺跡から出土した遺物や遺跡の詳しい解説は市浦歴史民俗資料館にてご覧いただけます。

 

発掘風景

上空から見た発掘現場

 

出土遺物

発掘された出土品

 

所在地

 

 

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