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三縞こぎん

三縞こぎん(みしまこぎん)   指定年月日:令和4年1月26日(水)

 

1.種 別      有形文化財

 

2.名称及び員数   三縞こぎん 2点

 

3.所在地の場所   五所川原市

 

4.由緒及び沿革等

(1)「こぎん」の語源

   小衣(こぎぬ)という意味で、衣服の一種の名称とされています。

 

(2)「こぎん」について

 元禄8年(1695)の『津軽藩庁日記』に「古布こぎん」、「こぎんの上帯」とあるのが最初の記録ですが、模様が施された「刺しこぎん」かどうかは不明とされています。

 享保9年(1724)、五代藩主・信寿(のぶひさ)の代に、「農家倹約分限令」が出され、農民の衣食住全般に渡って厳しい法令が箇条書きで出されました。そのなかに「農民の着るものは麻の単衣(ひとえ)の労働着」とあり、これが「こぎん(小巾)」と呼ばれました。そして、これを補強して着たので、「綴れ刺し」または「刺しこぎん」と呼ばれ、さらに後になって、「刺しこぎん」を単に「こぎん」と呼ぶようになりました。

 このように元来、「こぎん」は農村の人びとの労働着であり、普段着でした。北国である津軽では、綿花は採れなかったので、当時、木綿は高価なものでした。そのため百姓が着るのは、麻以外に許されませんでした。

 その他、江戸時代の記録では、津軽を訪れた管江真澄が『外が浜風』(天明5年・1785)、『外が浜づたひ』(天明8年・1788)、『すみかの山』(寛政8年・1796)において、「こぎん」の風俗について触れているほか、比良野貞彦の『奥民図彙』(天明8年)では、農婦が刺しこぎんを着ている図や「サシコギヌ」三種の模様図が詳細に描かれるなど、当時の農民の衣服の違いや風俗が詳細に記録されています。

 明治に入ると、農民にも木綿の使用が解禁となり、綿糸が一般に手に入るようになって、こぎん刺しは急速に発展しました。労働着、普段着、晴れ着用、嫁入り持参用として作られるようになりました。生活に密着したものから生まれた「こぎん」模様は、幾何学的な美しさを生み出し、人びとを魅了して一段と進展しました。そして、明治20年頃には手の込んだ立派なこぎん刺しが農村で刺されるようになりました。

 ところが、明治24年に上野―青森間の鉄道開通、明治27年に青森―弘前間の鉄道が開通するなど、文明開化の波が一気に津軽にも及んだため、物資輸送が各段に進展したことによって、暖かで丈夫な木綿の着物があっという間に津軽地方にも流通し、人々の生活に普及したために、手間の掛る「こぎん」は一気に衰退してしまいました。明治40年頃には全く廃れてしまいましたが、昭和に入って刺し技法の再興が図られ、現在は青森を代表する手仕事として全国に知られています。

 

(3)「こぎん」の種類

 「こぎん」は、デザインの特徴から、岩木川の流れを境に西の方に分布する「西こぎん」、東の方に分布する「東こぎん」、そして岩木川下流域に分布し、三本縞を特徴とする「三縞こぎん」に分類されています。当時は村々の交流も少なかったため、村によって同じような図柄が多く、そのこぎん刺しをみれば、その嫁の生まれた土地が分かるほどでした。

 「東こぎん」は、前身頃(まえみごろ)から後身頃(うしろみごろ)にかけて同じ模様で刺したものが多いです。  

 「西こぎん」は肩の部分に数本の横縞を入れています。そして、前見頃は三段に分かれ、異なる模様で構成されています。後見頃は二段に分かれ、上段には「轡(くつわ)繋ぎ(さかさこぶ)」の模様が刺され、魔除けの意味があるとされています。なお、肩に縞の入っていない「ベタ刺し」は平常着で、縞こぎんは晴れ着用とされています。

 

(4)「三縞こぎん」の特徴

 「三縞こぎん」が分布する岩木川下流域は、昔から気候風土の条件が悪く、冷害・凶作が多い地域でした。そのため、人びとの生活に余裕もなく「三縞こぎん」は、「東こぎん」や「西こぎん」に比べて大きく発展しませんでした。したがって、もともと作られた数が少ないこともあって、今ではほとんど残されていない幻の「三縞こぎん」となっています。

 「三縞こぎん」は、名前の示すとおり、後身頃と前身頃の背と胸に、太い縞が大胆に三本入っていることから付けられた名称です。弘前こぎん研究所の初代所長・横島直道氏によれば、三本縞が男性用で、女性用は四本または五本ずつの縞を入れて、晴れ着用にしたといいます。そして、縞のないものは、「ノッペラ刺し」と呼ばれ、平常用として多く作られたといいいます[横島直道編 1974]。

 三本縞の特徴としては、大胆な流れ模様を配して縞が太く、その間隔が狭いため模様くずれの心配がほとんどなく、刺し手にとっては刺しやすいとされています。また、大胆な縞入りによって、遠くにあってもはっきりと華やかさに見えるので、晴れ着用に多く用いられたといいます。

 

(5)「三縞こぎん」の現在

 数が極めて少ないとされる「三縞こぎん」は、そらとぶこぎん編集部の調査で、現在までに青森県内で34点存在していることが判明しています[鈴木・石田・小畑 2020・2021]。

「三縞こぎん」を生んだ金木地区では、農村の伝統芸能として「金木さなぶり荒馬踊り」(県無形民俗文化財、指定年月日:昭和56年9月26日)が受け継がれていますが、その荒馬踊りの衣装に今日でも「三縞こぎん」(複製)を着用して踊っています。また、昭和56年の指定申請書類には「用具:三縞こぎん6」と記録にあります。

なお、嘉瀬地区の「嘉瀬奴踊」(県無形民俗文化財、指定年月日:昭和44年12月15日)でも、かつては「三縞こぎん」を着て踊っていました。現在は使用されていませんが、昭和44年の指定申請書類には「用具:三縞こぎん6」と記録にあります。

 

5.指定文化財の構造、品質、形式及び大きさ等

(三縞こぎん№1)

〈寄贈者の出身地〉:金木町嘉瀬

〈来歴〉:昭和53年8月1日の金木町歴史民俗資料館開館に合わせて収集された民俗資料の一つです。開館当 

     時の資料目録に、「三縞こぎん」が記載されています。

〈主な模様と流れ模様の名称〉:

     前身頃=きくらこ、さや形、くぼみ刺し、ネズミの歯流れ、石形流れ、

     後身頃=さや形、井げた

     (※前・後身頃に三本縞)

〈その他〉:衿の内側に縫い付けられた布に「サノ」とマジックで書かれています。

 

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           三縞こぎん№1 前身頃

 

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             三縞こぎん№1 後身頃

 

 

三縞こぎん(№2)

〈寄贈者の出身地〉:金木町菅原(通称:川端)

〈寄贈日〉:昭和61年9月13日

〈来歴〉:元金木さなぶり荒馬保存会の責任者・代表だった方からの寄贈で、「金木さなぶり荒馬踊り」で使用  

     していたものと思われます。資料寄贈申請書により、寄贈日を確認しています。これ以降、金木歴史 

     民俗資料館では、「三縞こぎん」2点が展示されるようになりました。

〈主な模様と流れ模様の名称〉:

     前身頃=井げた、糸流れ入れやすこ

     後身頃=くつわつなぎ、芽三本流れ

     (※前・後身頃に四本縞)

〈その他〉:衿の内側に、「ツシマ」と刺繍されています。昭和56年に「金木さなぶり荒馬踊り」を県指定する 

      際の申請書類に「用具:三縞こぎん6」とあります。

 

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            三縞こぎん№2 前身頃

 

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             三縞こぎん№2 後身頃

 

 

6.現況

 指定候補文化財「三縞こぎん」2点は、立佞武多の館美術展示ギャラリー収蔵庫に収蔵・保管されています。

 

7.指定に値する理由

 「三縞こぎん」は、江戸後期から明治期にかけて作られました。金木地区を中心とした岩木川下流域に分布し、藩政時代に拓かれた新田地帯と重なります。当地域は冷害による凶作に加え、川の反乱による水害の常襲地帯であり、「西こぎん」、「東こぎん」の岩木川上流域とは異なる歴史と厳しい風土の中で、農民の晴着衣装として「三縞こぎん」は生まれ、育まれてきました。

 このため、「三縞こぎん」は、非常に数が少なく、希少性が高いものとなっています。この「三縞こぎん2点」は、当地域の衣装・風俗を知る上で極めて貴重な資料であり、市指定に値するものです。

 

 

《参考文献》

 青森郷土會 1937『郷土誌うとう』第20号

 横島直道編 1974『津軽こぎん』日本放送出版協会

 竹内正光 1979「津軽刺しこぎん雑考」『考古風土記』第4号

 青森市歴史民俗展示館「稽古館」2005『企画展 刺しこの世界―受け継がれた技―』

 鈴木真枝・石田舞子・小畑智恵 2020『そらとぶこぎん』第4号 津軽書房

 鈴木真枝・石田舞子・小畑智恵 2021『そらとぶこぎん』第5号 津軽書房

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