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山王坊遺跡

はじめに

山王坊遺跡は十三湖北岸、山王坊(さんのうぼう)川が流れる沖積地の奥まった山間部に立地する中世宗教遺跡です。

遺跡は山林に囲まれた日吉(ひえ)神社の境内地となっており、一帯は「山王坊」と呼ばれてきました。「山王」とは滋賀県大津市坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)に祀られる大山咋神(おおやまくいのかみ)の別名であり、境内の入り口には山王鳥居(さんのうとりい)が参拝者を迎えてくれます。

地元の言い伝えでは、山王坊には阿吽寺(あうんじ)があったとか、南部氏によって焼き打ちにあったともいわれ、一帯は古来より霊地として大切に守られてきました。

これまでの発掘調査によって、中世における神仏習合(しんぶつしゅうごう)を示すの礎石(そせき)建物跡(建物の土台石)が極めて良好な状態で保存されていることが明らかとなり、平成29年2月に国史跡指定となりました。

 

山王坊・日吉神社の古記録

現在、日吉神社の祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、創建年は不明です。

文献史料に関しては山王坊に関する中世の同時代史料はなく、次ぎのように近世以降の古記録がわずかに残るだけです。

安永九年(1780)の『福山秘府』(ふくやまひふ)には、嘉吉三年(1443)、南部氏との抗争に敗れた安藤氏に付き従って、山王坊(さんのうぼう)・永善坊(えいぜんぼう)・万願寺實相坊(まんがんじじっそうぼう)が松前へ渡って行ったことが記されており、山王坊を名乗る人物が十三湊にいたことが分かります。

寛政八年(1796)、この地を訪れた菅江真澄(すがえますみ)は山王坊にかつて弘智法印(こうちほういん)が住んでいたと『外浜奇勝』(そとがはまきしょう)に記していますが、事実かどうかは分かりません。

また、江戸時代に寺子屋の教科書として用いられた『十三往来』(とさおうらい)には、十三湖周辺の情景が神社仏閣とともに描かれ中世十三湊の繁栄ぶりを伝えていますが、「山王坊」や「日吉神社」という名前は記されていません。

明治三年(1870)の『神仏混淆神社調帳』(しんぶつこんこうじんじゃしらべちょう)には、神仏分離(しんぶつぶんり)に伴って、これまでの山王宮をやめて日吉神社と改名し、相内村の飛竜宮(ひりゅうぐう)境内へ移したとあります。その後、明治九年(1876)の『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)には、相内村の北東に山王坊という小堂があると記されていることから、この間に日吉神社として現在の場所に戻ったものと思われます。

 

 

発掘調査で明らかになったこと

これまでに山王坊跡調査団(昭和57~平成元年)や五所川原市教育委員会(平成18~21年)による発掘調査の結果、礎石建物跡が極めて良好な形で残っており、神社跡や寺院跡の建物配置を示す神仏習合の様子が明らかとなりました。

また、出土遺物の年代から十三湊安藤氏が活躍した南北朝~室町時代前期(14世紀中頃~15世紀中頃)にあたることも判明しています。

次ぎに発掘調査の成果に基づいた建築史学の研究による礎石建物跡の性格や位置づけ、想定される変遷案を紹介します。

 

1)奥院(A地区)

最も奥に当たる丘陵斜面に2つの造成平坦面があります。一番高い平坦面には、一辺6mの方形配石墓(はいせきぼ)をもつ奥院(おくのいん)の存在が明らかとなりました。

ここからは僧侶(そうりょ)の墓石である無縫塔(むほうとう)の一部や蔵骨器(ぞうこつき)とみられる壷片が多く出土したことから、山王坊に関係する僧侶の墓である可能性が高く、代々尊崇されて、関係者も追葬されていったものと考えられます。

建物配置を復原すると、北から奥院、鳥居、下段の平坦面には幣・拝殿(へい・はいでん)、その下方の緩斜面には石組階段が一直線上に並んで配置されていることが明らかとなりました。

 

2)社殿列跡(B地区)

山王坊川西岸の最も開けた平坦地にあたります。建物配置を復原すると、南から拝殿(はいでん)、渡廊(わたりろう)、舞台(ぶたい)・中門(ちゅうもん)・瑞垣(みずがき)・本殿(ほんでん)が一直線に並ぶ社殿列跡が発見されました。さらに拝殿の西側には南北に連なる2棟の礎石建物跡も発見されています。

拝殿は、母屋(おもや)が方三間(ほうさんげん)で、その廻りに一間分の縁側(えんがわ)をもち、母屋内部には浄土教系仏堂に特徴的な来迎柱(らいごうばしら)の礎石が存在することから、本来は仏堂(ぶつどう)であったと考えられています(これを「旧仏堂」と呼びます)。

坂田泉氏によれば、この旧仏堂こそ『十三往来』にみられる阿吽寺(真言宗)であり、奥院とともに山王坊初期の遺構である可能性が高いといいます。真言宗では高野山奥院にみられるように、先祖の追善供養(ついぜんくよう)や法会(ほうえ)を重要視していることから、山王坊成立当初は真言宗寺院が深く関わっていたのではないかと考えられています。

その後、永享四年(1432)、南部氏に敗れた安藤氏が北海道へ退去した後、再び十三湊へ帰還し再起を図ったものと考えられています。その際、日吉大社を新たに勧請(かんじょう)し、旧仏堂は拝殿となって生まれ変わり、新たに社殿列を増築し、再整備を図ったのではないかと考えられています。

 

3)仏堂跡(C地区)

日吉神社境内入口の西側平坦地に3棟の礎石建物跡を発見しました。永井康雄氏によれば、最大規模の建物は南側を正面とする入母屋造(いりもやづくり)か寄棟造(よせむねづくり)で、仏堂などの仏教的色彩の強い建物であるといいます。その特徴は東西方向の中央間が最も広いこと、建物の南・東・西面に縁側を設けていること、北側の突出部に仏像を南向きに配置したものと考えられます。そして、最大の特徴は流水を跨いで建築されていることであり、流水の先には庭園の存在が想定されます。さらに、屋根は板葺き或いは草葺きと考えられ、庭園を意識している点などは住宅建築にみられる特徴です。

こうしたことから、通常の仏堂建築ではなく、平安時代以降に建てられるようになった住宅風仏堂と考えられています。また、ほかの礎石建物跡は、仏堂に伴う庫裏(くり)(※1)や参籠所(さんろうじょ)(※2)などと考えられます。

 

(※1)僧侶が居住する場所や台所

(※2)参拝者が宿泊する施設

 

1.山王坊遺跡全体図

 

2.建物配置図(A・B地区)

 

3.社殿列跡の復原図(A・B地区)

 

4.建物配置図(C地区)

 

5.山王鳥居

 

6.発掘された仏具(瀬戸焼・香炉)

 

7.発見された奥院跡(A地区)

 

8.発見された拝殿跡(B地区)の露出展示

 

9.発見された仏堂跡(C地区)

 

10.山王坊遺跡出土の聖観音像懸仏(かけぼとけ)

 

 

問い合わせ先

担当 文化スポーツ課文化係

電話 0173-35-2111

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