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川倉賽の河原地蔵(かわくらさいのかわらじぞうそん)

金木新田の開拓事業は、元禄年間(1688~1703年)に、主として、諸国からの移住者によってなされたといわれています。
“嘉瀬の奴踊り”は、この開拓事業の成就祈祷の“願人坊”が、田植時期に、出雲大社や住吉大社の神事である“田植踊り”を勧進して、金木新田の田植踊りとしたものですが、特に、嘉瀬地方に残っているのが“嘉瀬の奴踊り”で、日本本土の北限に現存している貴重な、しかも、他に例のない動きをもつ、特異な田植踊りです。

 

“嘉瀬と金木の間の川コ石コ流れで木の葉コ沈む”

 

誠実なものは恵まれず、狡猾なものがはびこり、「この世の中はサカサマだ」「残念なことだ」と唄うこの奴踊りには、次のような伝説があります。
 
津軽4代藩主の信政公の命により、新田開拓のため、嘉瀬地方に派遣された藩士鳴海伝右エ門は、実直な性格で、開拓事業に全力を尽くしましたが、要領よく立ちまわることや、上役にとりいることをしなかったため開拓事業が遅れ、上役の不興をかい、同僚たちにもバカにされることが多かったところ、鳴海伝右エ門の忠僕、徳助が、これを無念に思い、秋の取入れの振舞酒の席や、月見の夜などに、即興的に唄ったり、踊ったりしたのが、この奴踊りの始まりだといわれています。

 

歌 詞

一、(ハア ヨヤナカ サッサ)
  さあさこれから 奴踊り踊る
  さあさこれから 奴踊り踊る
二、竹の切口に しこたんごたんと
  なみなみたっぷり 湛えし水は
  飲めば甘露の 味がする
三、稲妻ピカピカ 雷ゴロゴロ
  意気地無し 親父
  ばら株さひっかかって 千両箱拾った
四、親の意見と 茄子の花と
  千に一つの またむだもない
五、お前百まで 儂ゃ九十九まで
  ともに白髪の 生えるまで
六、今年ゃ豊作 皆踊るべし
  稲の田圃が まず揺らいだな
七、嘉瀬と金木の 間の川の
  石コ流れて 木の葉コ沈む
八、あまり長いは 御座の邪魔に
  まずはひとまず 又次御座る(三:四二)

 

嘉瀬奴踊

写真:奴踊1

 

写真:奴踊2

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