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五所川原甚句(ごしょがわらじんく)

今から約300年前(寛文5年頃)、五所川原周辺は凶作続きで農民は非常に苦しみ、やむを得ず男達は西郡深浦鉱山に働き(出稼)に行かねばならず、働いて得た少しの金を持ち帰り田畑を作ったところ、その年は大豊作になり、農民たちはあまりの嬉しさに笠のまわりに稲の穂をつるして踊りまくったことが起源で、後に振付され、お盆の踊りとしてまちの人にも親しまれ、五所川原甚句と称されて今日まで受けつがれています〔「芸能西北五編」(昭和50年 西北五民俗芸能保存会)より〕。
旋律から見ると、鯵ヶ沢くどき、鯵ヶ沢甚句(普及型)に強い関連性が見られ、囃子詞について見ると、その第一は音高の定まった「ヤーアドセー」というもので、鯵ヶ沢くどき、鯵ヶ沢甚句(普及型)、木造甚句に用いられています。
鯵ヶ沢くどきとその編曲である普及型鯵ヶ沢甚句、そして五所川原甚句には密接な関係があり、おそらくは嘉瀬奴踊り、稲垣で採集された中里の盆踊り歌、どだればちとも何らかの関係が推定されています。
◇『日本民謡大観 東北編』(昭和27年 日本放送協会 町田嘉章)「『鯵ヶ沢甚句』は鯵ヶ沢地方に行われたからその名があるので同じ曲節で五所川原附近で諷われているものは『五所川原甚句』と呼んでいる」
◇『東北民謡集・青森県』(昭和31年 日本放送協会 武田忠一郎) 「(鯵ヶ沢甚句は)明治初年頃までは、深浦で盆踊りにうたったもので深浦のマンガン鉱山でよくうたわれたものという。西郡では十三港、小泊港、木造町、北郡では五所川原、金木、嘉瀬、中里等までもうたわれている。」
◇『日本民謡全集2 北海道・東北編』(昭和50年 雄山閣 木村繁)「『鯵ヶ沢甚句』が弘前方面につたわって『ドダレバチ(津軽甚句)』となり、『木造甚句』『五所川原甚句』と呼び名が変わり、さらに奥地に入って『猿賀甚句』となり、その後様相を変えて『嘉瀬の奴踊り』になったといわれる」
◇『みちのく民謡ばなし』(昭和52年 東奥日報社 松木宏泰)「この歌(鯵ヶ沢甚句)は、津軽地方の盆唄にいろいろ派生し、五所川原の『五所川原甚句』や金木の『嘉瀬の奴踊り』が生まれている。」

 

五所川原甚句

五所川原甚句の模様1

 

五所川原甚句の模様2

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